流浪の猛将・可児才蔵

可児才蔵(1514?〜1613)
      
本名:可児吉長。才蔵は異称。美濃出身といわれる。
「名将言行録」によると、没時年齢は60歳だが詳細は不明。
      
明智光秀に仕えたころは臆病者と言われ半ば解雇の形で旅に出される。しかし佐々成政に仕え、宝蔵院胤栄(胤舜の父)に槍を学ぶ内に見違えるほどの活躍をしだした。
斎藤家→森家→佐々家→前田家→織田家(信孝)→豊臣家(秀次)→福島家と主君を転々、その主君の殆どが滅亡している。
それはもうNHK人形劇三国志における紳々・竜々の如く。
   
   
才蔵は関ヶ原の戦い福島正則の武将として参戦している。当時の戦では敵将を討ち取るとその証として首級を持ち帰るのだが、17首というあまりの多さに持ちきれなくなった。
そこで自らが討ち取った証とするべく、敵将の口に青竹の笹を噛ませておいた。
論功行賞の際にこれを聞いた徳川家康は「笹の才蔵」と絶賛したという。
   
   
大名家を転々と渡り歩く人間は、一芸売り込みによる仕官が一般的であったが、
福島家に仕官する際に才蔵が売り込んだ一芸は「ひとりで髷が結える」であった。
今なら亜細亜大学合格も可能であろうか。
   
   
愛宕権現を信仰し、権現様の縁日である24日に死ぬと常々公言していたが、
その通りに6月24日に死亡。完全武装で床机に腰掛けた格好であったという。
      
可児才蔵の墓
http://www.m-network.com/sengoku/haka/saizo450h.html
   
   
2004/10/14 ごんぶと・ああ〜ん より。
   
   
尼子家再興に一生を費やした山中鹿之介の様な武将もいいが、才蔵の様な将も味が有って良い。
津軽為信参謀・沼田祐光とか、「留守の火縄」朝倉一玄、etc。もっと光が当たってもいいのだが…。