人を殺してはいけません[前編]

 
毎日の様に殺人事件のニュースを目にする昨今です。
若年齢化も目立ちます。
しかし目にする度に思います。
 
人を殺すには相当の労力と代償を必要とするだろうに、何故殺人という選択をするのかこの人達は?
 
そもそも、人を殺すという行為に対する最大の壁として「法律としての死刑制度」が有る訳ですが、それを以って尚それを選ぶのは何故なのか。
 
世論調査によれば日本の死刑容認は81%、死刑は廃止すべき6%(内閣府2004年調査)。
殆どの日本人はこれに同意している事が判ります。
人を殺して「法律に触れるとは知らなかった」という話は流石に聞いた事が有りません。
 
 
 
人を殺す事がよくない事だという事を説明するのはとても難しい。
例えば「人を殺すという事は、オマエも殺されるという事だ、それでもいいのか」
というありふれた論理に対しては
 
「自分は死刑になってもいい。人を殺すのだから自分も殺されてもしょうがない」
という自らの生 自体を否定したり、
 
「自分は殺されるのは嫌だ、だけど何故それが人を殺してはいけないという事になるのか?」
と利己主義による論理の相互性を否定したりする。
 
後者の様な屁理屈は兎も角、前者の様な考えを退けるのはとても困難であろう。
 
倫理的なものを幼い頃から教えられず身をもって体得出来なかったのか、はたまた環境や個人の内面に巣食う、生への執着の否定が形成されていったのかは定かではないが、その様な経緯に至った者に
「生きる事は素晴しい事だ」
と思わせる事を考えれば。
 
道徳、というカリキュラムが今どうなっているのか私は知らないが、道徳的観念の欠如によって引き起こされた殺人を抑制するのには、死刑という具現的なものだけでなく「殺人者の末路」をトラウマの如く植えつける…といった些か乱暴な事まで思い浮かべてしまう。公開処刑とか?
 
まぁ、もしそうなったらなったで
「死刑を見て一度やってみたいと思いました」
などどほざく輩が出てくるのだろう。
世も末だ。21世紀始まったばかりだが。
 
また、よく聞かれる科白に
「カッとなったから」
「ムカついたから」
「キレたから」
 
たかがこれだけの事で倫理や法律の壁があっさりと越えられてしまう事に海よりも深い疑問を感じる。
まさか、衝動的殺人なら計画的よりも罪が軽い筈だから、などと考えている訳ではないだろうに。
 
この事が「殺人の軽量化」に拍車を掛けている様に思われてならない。
心理的な、一種抽象的な事項に原因を埋めてしまえばある程度の理解は得られる、という風潮が。
心理学専攻の私ではあるが、この事に関してだけは心理学的に言及すべきでないとも思う。
 
「売春」が「援助交際」と名を変えて市民権を得たかの如く誤解されている様に、「つい…」と言えば叙情酌量して貰えると勘違いする馬鹿がこれ以上増えない事を祈る。
 
個人の心理的原因による殺人に対しての罪を重くする以外には、やはり情操教育から地道に壁を高くしていくしか対処法も無いのか。
やはり難しい。
 
少し前の話だが衝動的殺人の例として、栃木の女教師刺殺事件において犯人である中学生の少年は
 
「こんな自分でも大学に行けるのでしょうか?」
 
と質問したらしい。
殺人という重犯罪に対するリスクを家庭で学校で社会で、道徳として教え込まれてきたならばこの事件は起こらなかったかも知れない。
 
 
参考文献:
「なぜ人を殺してはいけないのか?」永井均×小泉義之河出書房新社 
「はじめての死体解剖」A・H・カーター・飛鳥新社
 
後編へ続く。