人を殺してはいけません[後編]

 
丁度今、ドラマ「女王の教室」ダイジェスト版が放送されてました。
ここでも
「先生、なぜ人を殺してはいけないんですか?」
と生徒が質問するシーンが。
 
あまりのタイミングの良さに思わず見入ってしまいました。
本放送は3/17だったかな?時間が合えば観てみよう。
 
 
 
前回は倫理・哲学的に傾いたので、最大の抑止効果とも言える法律的な事柄についても少し。
 
計画的にしろ衝動的にしろ、道徳倫理の他に法の壁を高くする事が殺人に対する抑止効果の一つである事は間違い無い。
またその最たるものが「死刑」であるというのが一般的である。
 
「一日も早く死刑に」
と自ら死刑を望み、死刑確定からわずか1年という異例の早さで執行された大阪池田小児童殺傷事件の宅間守死刑囚の様なケースは殆ど無い。
やはり人を殺す様な者であっても死刑は恐ろしいのだろう。
 
しかし、もし死刑を逃れたならばその場合は?
現在の日本において死刑の次に重い刑罰は無期懲役である。
 
しかし実際に「無期」であるかというとそれは大きく異なる。
真面目に努め更正を続ければ大体15〜20年で一般社会に帰ってくる事が出来る。
そしてこの事は法律に詳しいとは言い難い私でも知っている事からも、決して秘密裏に行われている訳ではない事が伺える。
30歳で拘置所に入所しても出てくるのは45歳。まだまだ人生をやり直せる年齢である。
 
死刑ならば首を括られて死あるのみ。無期ならばいずれはまた元の「様な」生活を営む事が出来るのだ。
正に天と地の差だ。これが殺人者に、要らぬ希望を与えている事は想像に難くない。
 
何故、文字通りの「無期」懲役を法として課せないのだろうか。
所謂「終身刑」というヤツだ。
 
よくある反論で収容施設の問題や費用経費の負担増加と言うならば、他の無駄なモノに税金を湯水の様に使わず此処に金を注ぎ込む努力をしない限り政府は「殺人を享受する社会」を造り上げている一員として扱われても致し方無いのではないか?
 
前述の宅間守死刑囚は、終身刑ならばどうだったであろうか。
改心どころか悔いる言葉の一つすらも残さぬまま刑を執行された彼は。果たして死刑は適当であったのか。
そして残された遺族は彼が自ら望んで死ぬ事に対し少しでも贖罪を感じたのであろうか。
…。
 
 
「世論が許さないので、極刑は免れない」
判決の際によく耳にする裁判官の常套句。
今までなんとはなしに聞き流していたが、「世論」が殺人に対する裁きの要因になっている事に改めて気付かされるではないか。
  
殺人をどう正当化しようと、人を殺したという事実に変わりはない。
例え無期懲役になったところで、被害者及び本人の親族友人知人関係者までもが害を被るのだ。
加害者の家族が自殺に追いやられるケースは枚挙に暇が無い。
 
無期ならばいずれはまた元の「様な」生活を営む事が出来るが、あくまで血塗られた過去に彩られた生活だ。
非殺人者から当然の如く浴びせられるであろう幾多の罵詈雑言は誹謗中傷でも名誉毀損でもなく、自らが犯した過去の断片を突いた真実なのだから。
 
人を殺す事によって生じるストレスは心理的抑制だが、これは継続してその後も半永久的に在り続けるのだ。唯一この点については心理的考察が適切ではないかと思う。
死を免れた人間においてもそのストレスは精神的外傷に等しく大きいだろう。
「ワタシハヒトゴロシトシテ イッショウヲオクルノダ。」
 
 
もし、何故人を殺してはいけないのかと問われれば私は
「殺人を享受する社会を造るべきではない、という事が長年人間が培ってきた経験則なのだ」
と答えた上でその理由についてここまで述べた事についてを交えながら語るだろう。
殺すのか、殺さないのか、殺すべきなのか、殺すべきでないのか。
これを決定付けるのは社会の規範であると同時に個人の主観でもあるが。
 
例えこの言葉が殺人者には届かなかろうとも、自ら考える事が重要なのだ、法律的であれ倫理・哲学的であれ宗教的であれ。
惰弱な自分と世論に流されるな。考える事が即ち殺人を抑制する結果へと繋がる事がもう判るだろう。
 
 
あなたが、殺人を享受しない社会を構成する一人であるならば。
 
 
 
参考文献:
「良心をもたない人たち」マーサ・スタウト・草思社 
「さよなら−死刑で被害者は救われるのか」原美由紀・新風舎
「なぜ人を殺してはいけないのか」小浜逸郎洋泉社
「人が人を殺すとき」デイリー・マーティン,ウィルソン・マーゴ・新思索社