親子鷹、翔ぶ。 …燕と兎の親子だけど

 
仕事から帰ってTVをつけると、燕−兎戦でちょうど燕・花田がパンダ由伸に今日2本目のHR打たれる瞬間でした。
因みに投げた試合は3試合連続被弾中。いっそ登録名を花田から「花火」に変えてしまえばいいのに、と思う今日この頃。
 
常日頃、読売兎球団に向けて負のオーラを放っている私ですが、一人だけ熱烈に応援している選手がおります。
現在の球界では数少ないアンダースロー会田有志投手その人。
トレードマークはちょっとエルフィンなお耳。
4月26日の対横浜戦では勝利投手となり、日本球界初の親子勝利という快挙を成し遂げたのでご存知の方も多いかと。

 
佐野日大高時代はスリークォーターの速球派で甲子園に出場。
高校三年の時、監督に腕を下げて投げる事を薦められ、中央大学に入ってからサイドスローに転向してエースの座に。
サイドスローからのMAX147㎞の速球はなかなか魅力的でした。
 
そして2005年ドラフト。
ヤクルト指名しろ!…と全身全霊をもっての願いも空しく、よりによって巨人が7巡目に指名。
巨人に入団し最初の1年間は牧場で防御率6点台と完全に埋もれた存在。
しかし、昨年秋。尾花ピッチングコーチの薦めによりアンダースローに転向。
自主トレ中にアリゾナヤンキース王建民から教わった高速シンカーをウィニングショットとして習得。
今年のキャンプで頭角を現し、シーズンに入ってからは25試合中12試合登板、防御率0.68と大車輪の活躍で中継ぎエースの位置に付けてます。
とりあえず原、使いすぎ。條辺みたいに潰さないでくれよ…と祈るばかり。
 
 
さて、子鷹については知る方も多いと思うのですが、寧ろここでのメインは親鷹。
ヤクルトで1971〜1980年に活躍、通算29勝を挙げた会田照夫投手です。
1970年のドラフト8位でヤクルトに入団。因みに3位が若松勉で4位が渡辺進、10位が杉浦亨と後の主力が多く入団した年でした。
76年には10勝9敗1Sと二桁勝利を挙げ、77年には開幕から5連勝もしている実力派なのですが、イマイチ父について詳しく書いているところが無いのは意外。

 
会田照夫の何が記憶に残っているかって、それはもうあの投げ方に尽きます。
一年後に入団する安田猛と似たような体型…有り体に言えばずんぐりむっくりの体躯から、ダイナミックで二段モーションギリギリ、体が一旦沈んでから浮き上がる「踊る様な」という表現がピッタリ*1アンダースロー
決して渡辺俊介(鴎)の様な華麗な踊りではなく、寧ろ阿波踊りの匂い漂うフォームから鋭いシュートと緩いカーブを使い分ける技巧派。
思えば子供心に、けったいな投げ方するピッチャーもいるもんだ。と注目して観ていたのがヤクルトファンになるきっかけだった様な気もします。
 
まあ45敗しているだけあって喜だけでなく悲もしっかり持ち合わせてます。
76年にはエースナンバーの背番号18*2をドラフト1位のサッシーこと酒井圭一に奪われていたり。
81年には巨人の広野に代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれてたり。
そういえば鈴木康二郎が王貞治世界新記録756号HRを打たれた後を継いで投げたのが会田投手。
もし1打席ずれていたら球史に名を残していたのかも知れません。元々左打者には分が悪いし。
 
大幅に余談ですが鈴木康の756号被弾は「がんばれタブチくん」等でかなりネタにされたり、スポンサーから「世界記録を打たれた投手賞」として海外旅行を送られたり*3、「プロ野球名場面」等の懐古番組の度に必ず映像で流されたりと、この一件だけですっかり有名になってしまいましたが、
この76年には14勝9敗、翌77年には13勝3敗で最高勝率のタイトルを取った程の一流投手でした。
 
そして晩年。共にヤクルト投手陣として槍を並べたのが77年に入団してきた後のエース、尾花高夫
そう、現在の巨人のピッチングコーチであり、大先輩・会田照夫の子 会田有志アンダースローを薦めた張本人です。
縁は異なもの 味なもの。つぅか尾花が空気読んだんだろうなあ。
 
サンスポ記事より。 

埼玉・春日部の自宅でテレビ観戦していた父は初勝利にしみじみと話した。
「勝ちよりピンチに代えられなかったことがうれしかった。信頼してもらってるんだなぁってね。一軍に上がってせがれは相当なプレッシャーだったと思う。よく頑張った」

同じころ、球場を後にした会田は恥ずかしそうにつぶやいた。
「ウイニングボールは父に渡します」
職人から職人へ、父子継承でつかんだ『絆』の1勝だ。

 
サブマリン伝説はまだ始まったばかりだ。
 
 
…あ、でも燕相手にはほどほどに願いますよ。
 

*1:本人曰く、これでもフォームをコンパクトにしたとの事

*2:ホントはヤクルトのエースナンバーは伝統的に17だけどね

*3:辞退した