「ロリータ」にコンプレックスを抱く

mongkang2008-06-12

 
翻訳小説がどうも苦手である。原体験がハーレクインであった事に因するかどうかは定かではない。
 
「ロリータ」は、アメリカに亡命したロシアの作家、ウラジーミル・ナボコフが1955年に発表した長編小説である。
日本語訳版は1959年に大久保康雄訳が出ているが、いかにも翻訳しましたという感じが強く、決して良い評判ではなかった。
若い頃に読んだが、私には合わずがっかりしてこの一冊以降、翻訳物への期待感が薄くなってしまった。
同時期に読んだ「ドグラ・マグラ」が奇書としてあまりにも強く印象に残ってしまったせいでもあるが。
 
既訳版が出てから46年経った2005年に、突如新訳が若島正訳で発刊された。
10月の月末、毎月の様に新刊を検品し新潮文庫の箱を開けた時の驚きといったらそれはもう!
以前受けた失望などどこかへ消え去っていた。
おお、ロリータ。運命はかくの如く扉を叩くのだ。
 
 
「ロリータ」あらすじ(Wikipediaより。ネタバレ有り)
 

ヨーロッパからアメリカに亡命した中年の大学教授である文学者ハンバート・スチュアートは、少年時代の死別した恋人がいつまでも忘れられない。
その面影を見出したあどけない12歳の少女のドロレス・ヘイズ(Dolores; 愛称ロリータLolita)に一目惚れをし、彼女に近づく為に下心からその母親である未亡人と結婚する。
 
母親が不慮の事故で死ぬと、ハンバートはロリータを騙し、アメリカ中を逃亡する。
しかし、ロリータはハンバートの理想の恋人となることを断固拒否し、時間と共に成長し始めるロリータに対し、ハンバートは衰え魅力を失いつつあった。
ある日突然、ハンバードの目の前から姿を消したロリータ。その消息を追って、ハンバートは再び国中を探しまわる。
 
3年後、ついに探し出すが、大人の女性となった彼女は若い男と結婚し、彼の子供を身ごもっていた。
哀しみにくれるハンバートは彼女の失踪を手伝い、連れ出した男の素性を知り殺害する。後に逮捕され、獄中で病死。
そして、ロリータも出産時に命を落とす。
作品はハンバートが獄中書き残した「手記」という形式をとっている。

 
 『 ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。
舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。』
 
今まで読んできた小説の中で最も甘美だと感じた書き出し。
英文ではこの冒頭部分が既に言葉遊びになっていたらしく、この小説の中で最も重要なファクターであるそれを捨てたのは異訳だとする向きもあったが、敢えて排除するに値する書き出しだと思う。
 
 
世に聞く「ロリータ」という一人歩きしてしまった単語とは全く違い、難解で、仕掛けが巧妙で、格調高く、文体の独特さにいつしか惹かれてしまう…そんな世界文学の最高峰である。
勿論低俗な性行為描写などは全くない。それに該当するであろう部分すらも暗喩と様々な言葉遊びの中に巧みに隠され、熟読しなければどんな行為が有ったのか無かったのか、それすらも読み取る事は危うい。
今回、この様な書評(というのもおこがましいが)を書くに至ったのも、2年半掛けてようやく3度目読了を以って半分程度は理解したという自負が出来たからである。
 
その奥深さといったら
ある人は支配欲に駆られた男の行動を犯罪心理学として。
ある人は少女が受けた中年男の欲望と悲哀について。
ある人は巧妙な文章をチェスのプロブレムになぞらえて。
ある人は少女をアメリカ・中年男をヨーロッパの象徴として。
未だに「ロリータ」の様々な考察について新刊が出ているくらいだ。
 
  
言葉遊びについて例をひとつ。
ロリータとハンバートは逃避行の後にビアズリーというアメリカ東部の地に居を構え、ロリータをお嬢様学校である「ビアズリー女学校」に通わせるのだが、このビアズリーはイギリスの世紀末耽美派画家オーブリー・ビアズリーを意図してつけられているのだと推測できる。
 
ビアズリーといえば日本の浮世絵に強く影響を受け、繊細なタッチで官能的・退廃的な作品を描いた画家である。
1950年代当時のアメリカは今では考えられない程に規則と倫理でガチガチに固められた国家であり、ナボコフと同じ様にビアズリーの作品も異端として迫害されていたであろうことは想像するに難くない。
ビアズリー女学校、日本風にすればさしずめ「歌麿女学院」といったところであろうか。
 
 
母親が不慮の事故で死ぬまでが第一部で、アメリカ逃避行からビアズリーでの生活が第二部だが、初見では第一部の感傷的な側面と描写の緻密さに比べて第二部は間延びした感があって、その点でも「ドグラ・マグラ」との奇妙な共通項をみていたのだが、再読・再々読するにつれて何気ない情景の中にも仕掛けが施されている事に気付かされるのだ。
ドグラ・マグラ」の「ちゃかぽこ」のくだりは何遍読んでも冗長に過ぎるだけだったが。
 
 
そして読んでいくうちに早い段階で判ってしまうのである。
ロリータは世間一般でいわれている無垢で純粋な少女とはかけ離れている存在だという事に。
ロリータは我侭で、奔放で、燦めくように明るくて、どこにでもいるゴシップ好きの女の子だったのだ。
 
 
兎に角、物語の内容が濃い上に奥が深いので、行間にすら何か細工が施されているのではないか、とまで疑いだすにつれて、ふと思う。
この様な読み方は…現代学問としての文学では正しい読み方であるが…疲労感は類比無い。
強いて言えばうんうん唸りながら小難しい数式を駆使して数学の解答を捻り出すのに似た感覚か。
それだけに、自分の中で答えが出た瞬間の爽快感もまた格別である。いや、数学の解答から受けるのは憔悴感が殆どだが。
 
 
それでも、数多い「ロリータ」に関する書評本をいくつか見てみると、その理解度の高さと文学理論の難しさを思い知らされる。
英語で書かれた原文に加え、ロシア語版をも参考にした考察を読むにつれ、本読みとして理解度の差というコンプレックスを否が応にも刺激されてしまうのだ。
 
ならばせめて、不当に貶められたこの格調高き文学作品を世に広めるべく尽力しようではないか。
 
そんな訳で、店では我がニンフェットが山と積まれ、その身を委ねる日を待ち受けているのである。